昭和40年04月13日 朝の御理解
昨日の朝の御祈念に、福岡の徳久さんところの二番目の息子さんが、お参りして来ておりました。今度兄弟で、御本部参拝を致しますと。丁度御本部参拝の帰り道をハイヤーを雇って帰っておったんです。ところが横あいからトラックが出てまいりましてね。そのタクシ-の所にぶつけたんです。それで、徳久さん達の乗っておる車が、丁度2m下のどぶ川に落ちこんでおる。一転回した回転しておるぐりっと。
そしてどぶん中に落ちこんでおる。ですから2人とも乳のにきまで、どぶん中にまでつかってしまった。おかげで、その怪我も何も無かったんだそうですけれども、もちろん自動車は大破しとったそうですけれども。もう本当に、広大なおかげを頂いて、今朝もすっとんで、御礼に出て参りましたというてから、まさはるさんと申しますが、御礼に出て参っておりました。
帰りましたら母が、もう帰って来る頃だろうというのて、朝風呂を沸かして待っておいてくれたから、早速その風呂に入らして貰って、そしたら昨日あちらのクリーニング屋さんがお休みだそうですが、限ってその何か御用ありませんかと取りに来てくれて、その汚れた、洗濯やら洋服やら全部もって行ってくれて、何から何までお繰り合わせの中に、こういう広大なおかげを頂きましてと、いう御礼に出てみえました。
皆さん、どういうふうにその、おかげ頂きましたという事について、お考えになるでしょうか。兄弟2人初めて、この御本部参拝をしたんです。弟さんが東京から寿司屋の職人になって、丁度5年間ですね。年があいてから帰って参りました。その御礼を兼ねて兄弟2人が、御本部参拝をさして頂いた。ところがその帰りの車が、そういう事故にあったと。こういう所を私は、信心でよく分かっておらんと、参っておらけりゃ何もなかっただろうと言った様な事になって来る。
信心しよったらこういう事になかったとか、信心しよった甲斐はないけれども、例えば御本部参拝をしておらなかったら、こんなめに逢わんでよかったろうにと、いった様な事になりかねない。信心さして頂いておっても、やはり雨もありゃ風もあるのですけれども、ここに一つ、それをそれと信じられる力というものを、日頃頂いておらなければいけません。そこんところを、教祖の神様はですね、信心しておって変わった事が起こって来たらおかげと心得て信心せよと、と仰っております。
問題は、これを信ずるか信じないかという事です。これも私の体験から申しましてもです、いわば変わった事というか、目の前が真っ暗になる事がおこっても、信心させて頂きよっても、おかげと心得て信心しよと。いわば、神様のお働きを信じる。勿論神様の御働きの中には、めぐりのお取り払いという事もあろう。特別なお徳を下さろうとする、御神意が、その中にひそんでるという場合もあろう。
ひそんでいるものを頂かして貰う。そこを私は体験さして頂かなければ、そこを初めて本当に今度の御本部参拝によって、広大なおかげを頂きましたという事になるのです。ですからここんところをです、ここんところはそのお参りさえしてなかったら、こんな目に逢わんでよかったという頂き方の中には、もうなぁにもないです。そこで日頃ここんところの信心をしっかり解らして貰って、それをそうとすぐおかげ頂いたと実感できれる。これをおかげに違いないと。
これは神様のご都合に違いないと、これはこれは神様の特別のめぐりのお取り払いに違いがないと。目の前が真っ暗になる様な事柄である程に、私共凡夫には分かんけれども、目の前が真っ暗になるような、めぐりがおおい被って来ておったに違いない。そこをそういうふうにです、おかげと心得て信心さして貰う。そこからです。今までとは、違った信心の飛躍も、そこからおかげがうけられる様になる例は、私の過去私の信心を何時も聞いて下さる、それが皆さんが、合点がおいきになるだろうとこう思う。
話を聞いて合点がいくのではなくてです、こと自分の事になった時にです、それをそれと感じられる時に、昨夜の御理解じゃなくてですけれども、楽に信心しよっとこう仰る。重いものを背負うておる訳ではなからなければ、重い物を担いでおるのでないから、信心は楽に信心。重いものかろうておるわけでもなければ、荷物を担いでおる訳ではないから楽じゃとこう仰る。ね、
家業勤め勤めするがよいとこう仰っておられるが、この楽じゃということはです、昨夜の御理解を皆さんにきいて頂いたんですけれども、自分の例えば楽な時だけ、都合のよかときだけ拝む。拝みたい時だけお参りしたい時だけ、家業の合間合間に暇ができた時だけ例えば拝まして頂くという様な事が楽というのではない。楽というのは、有難く信心をさせて頂けという事である。という事の例をもって私は、お話をさして頂いた。
参られる時だけ参ろといった意味合いでは楽ではない。そういう信心では、今朝から頂きます御理解がです。例えば、信心しておっても、どうしてこのような事が、いった様な時に力も受けられなければ、おかげも受けられないという事になる。御本部参拝さえしておらなければ、こういう事になっておらなかったのにという事になる。いわゆる楽ではなくてです。普通でいう楽ではなくて、ね、
例えば私は勿論午前中の1時間のご奉仕は、有難くご奉仕させて頂よるけれども、控えに下がってお食事をさせて貰うと、お腹が大きくなってどんどんとなる。それで炬燵の中にでも入っておると、眠気が来てさあ2時からの奉仕がおっくうになる。それで私最近工夫をした。一時間あまりを新聞を読まして頂いて、眠気が来たらすぐこちらの火鉢の所にきて座る事に決めた。そして2時という時間1時間をそこで待つ事にした。
そしたらまだ2時じゃまあだ、2時じゃなかろうと、いうぐらいにここに座る事に意欲が生まれてくる。しかもさあその2時間、のそのここに座らして頂く事の時間の短さに驚いてしまう。有難い。有難いと思うて座るから。ところが眠いけれどもこたつの中にやっとかっとすわった時の2時間は、とても長い気がする。これは私はじゅつない修行であると。同じ事柄でもです。有難く座らして頂いけば2時間が楽である。私は楽というのは、そういう意味だと思う。
そういう信心を、日頃楽しませてもらい、有り難く思わして頂き、さして頂く様な信心からだけしか私は、そういう様ないわば、突発的な事が起こってもです、広大なおかげを頂いてという様なふうには、頂けんと私は、思うです。そういう信心をさして頂いて、信心しておって変わった事が起こったら、おかげと心得て信心しよとおっしゃる。おかげと心得て信心が出来ないと思う。
そこに信心の、お徳の受けられる、受けられないという、別れ道がそういう場合にあるという事になったらです、そこを、いかに信心で有り難く受けるかという事が、焦点になってくる訳でしょ。為には、ただ今私が、申しますような、意味合いにおいての、いわば楽な信心、いわゆる有り難い信心をさせて頂いておらなければです、そういうふうに頂けんのじゃないかとこう思います。
おかげ頂きました。